新格闘プロレスは何故『本物』になれず失敗したのか?その破綻までの過程を解説

   

早すぎた(?)インディー団体、新格闘プロレス。

新格闘プロレスといっても今のプロレスファンにはピンとこない名称だとは思います。

新格闘プロレスは、平成維震軍を抜けた後の青柳政司が旗揚げしたプロレス団体です。

簡単に言うと、UWF的な格闘技路線を標榜しつつも修斗との対抗戦で粉砕し、最終的には地味なローカルプロレスを展開するだけの弱小団体として短命を終えてしまった団体です。

しかしながら、あの時代にこの試みをしたことは、クオリティは置いておいてナイストライな側面もあったのではないかと思います。

今回は、新格闘プロレスなる団体は一体何だったのか、を知りたい方向けのマニアックな情報をお届けしますよ。

 

地方UWFを目指した新格闘プロレス

新格闘プロレスは空手家の青柳政司が設立した団体だけあって、最初から格闘技色の強い打ち出しをしていたとはいえます。ただ、この青柳政司自体が、空手をやっているのをあまり見たことがない(笑)。メディアに出るときはプロレスの試合に出るときですから、空手家のギミックでプロレスをやっている人、という印象は拭えません。

新格闘プロレスがやろうとしていたことは、いわば地方UWF。U系のスタイルを、都会の大会場ではなく地方をドサ周りしながらやっていこう、と。おそらく、UWFがやっていないニッチを拾おうとしたのでしょうが、これがいけなかった。都会ではUWFのスタイルが浸透していましたが、地方に行くと、プロレスの派手さがないU系のスタイルはウケが悪かったのです。

まあ、道場のスパーリングを延々と見せられているようなものですから。猪木、馬場しか知らない民衆に格闘技路線を見せても、柔道部の稽古と特に差を感じないというわけです。青柳政司は、ここを読み間違えてしまったのかなと。

青柳政司はもともと新日本のリングに上がっていた男です。メジャーを知っている強みを生かしてインディーで展開できればよかったのですが、この賭けは失敗したんです。

結局、インディーらしくデスマッチを展開することで集客を補っていったりとか、日本に上陸を図ったWWFの試合に青柳が出場するなどして食いつなぐことになります。当時、新日本と全日本はWWFに一切協力しなかったため、WWFが日本で商売するには、それ以外のインディー系レスラーを雇うしかなかったんですね。

こうした、最初にブチ上げたコンセプトと実際にやっていることがあまりにも乖離してしまったため、団体はさらなる迷走をすることになります。

その青柳自身が団体をやめてしまい、残ったスタッフが押し上げたのが、後にヒクソンとも戦うことになる木村浩一郎です。最初から木村浩一郎を確保しておけばまた違った形にもなったのかな、という印象はありますねえ。

振り返ってみると、青柳政司はなんでもよかったんだと思います。でなければ、空手、プロレス、デスマッチ、WWF、なんていうごちゃまぜなことはやらかさないでしょう。

であれば、この何でもありなマインドをもっと前面に出して興行を打てば、今のDDTのような多彩な打ち出しも出来たのではないかと推察する次第であります。

新格闘プロレスの最大の罪は、修斗でボコボコにやられたことですね。『プロレスラー最強伝説』に泥を塗った罪はあまりにも重い。もちろん、その後の総合格闘技ブームで真実はさらけ出されるわけですが、それでも、あの時代にプロレスラーへの期待、夢を砕いた事実は消えないと言わざるを得ません。

それでも功績を讃えるとするならば、長州力に噛み付いて長州の目をインディーに向けさせた矢口壹琅を育てたことですね。

最終的に、興行も打てなくなり活動停止してしまった新格闘プロレス。平成に影を落とす、、とまでは言いませんが、筆者的には苦い思いのする団体であることは否定しません。

 - 群雄割拠